2009年 06月 10日
写真家とモデルの共同制作 |
さて、ある写真展のトークショーでのできごと。(渡辺さんのことではありません)
絵画でも写真でもそうだが、「見てくれた方が感じたように見ていただいたらそれで良いのです」と、一見、人当たりの良い言い方をして、実際は自分でも答えを持たず、自分自身に対して緩く無責任な作家が多い。作品の展示は、沢山ある自作品群から自分でセレクトして空間構成するのであるから、少なくとも鑑賞者に対して伝わってほしいと願う何かがなければ、つくり手としては、やはり無責任という他ないだろう。たとえば、戦争や被爆等の内容を作品に重ねる場合、そういった意図ならばと、後世の者が同じ過ちをしないよう被写体として協力する人はいるだろう。つまりそれは写真家のその仕事に対しての署名活動のようなものであり、写真家が間違ってはならないのは、自分の作品のファンだと思うことである。この場合、写真家とモデルは共同制作をしているのである。しかし実際に、作品として発表するのは写真家であり鑑賞者と対峙するのもその写真家となるのであるから、写真家は彼らの真意を代弁しなくてはならないのである。綺麗な花の写真を撮っている写真家に自作の花を提供するというのとは訳が違う。にもかかわらず展覧会場での質問に対して、シャッターを押した写真家本人が、「制作意図や展示に関してのテーマを含め、会場の鑑賞者に伝えたいとするところを持たないようにしている」と言い切るのであれば、内容が深い問題だけに、私の感情は残念を通り越して憤りに近い。たとえば、内容的にはアメリカでも開催すべきものだと感じたが、それほどの意志があるのか。また、仮にアメリカで開催した場合、「自分たちは間違ったことをしていない」というアメリカ人と対峙したときに何と応えるのか。「感じたように感じてくれればそれで良いのです」と言うつもりなのだろうか。若い作家で是非語り継いでほしい内容に触れていただけに期待はずれな気がした。注目を得るための安易な制作スタイルの材料にしてはならないと思った。
絵画でも写真でもそうだが、「見てくれた方が感じたように見ていただいたらそれで良いのです」と、一見、人当たりの良い言い方をして、実際は自分でも答えを持たず、自分自身に対して緩く無責任な作家が多い。作品の展示は、沢山ある自作品群から自分でセレクトして空間構成するのであるから、少なくとも鑑賞者に対して伝わってほしいと願う何かがなければ、つくり手としては、やはり無責任という他ないだろう。たとえば、戦争や被爆等の内容を作品に重ねる場合、そういった意図ならばと、後世の者が同じ過ちをしないよう被写体として協力する人はいるだろう。つまりそれは写真家のその仕事に対しての署名活動のようなものであり、写真家が間違ってはならないのは、自分の作品のファンだと思うことである。この場合、写真家とモデルは共同制作をしているのである。しかし実際に、作品として発表するのは写真家であり鑑賞者と対峙するのもその写真家となるのであるから、写真家は彼らの真意を代弁しなくてはならないのである。綺麗な花の写真を撮っている写真家に自作の花を提供するというのとは訳が違う。にもかかわらず展覧会場での質問に対して、シャッターを押した写真家本人が、「制作意図や展示に関してのテーマを含め、会場の鑑賞者に伝えたいとするところを持たないようにしている」と言い切るのであれば、内容が深い問題だけに、私の感情は残念を通り越して憤りに近い。たとえば、内容的にはアメリカでも開催すべきものだと感じたが、それほどの意志があるのか。また、仮にアメリカで開催した場合、「自分たちは間違ったことをしていない」というアメリカ人と対峙したときに何と応えるのか。「感じたように感じてくれればそれで良いのです」と言うつもりなのだろうか。若い作家で是非語り継いでほしい内容に触れていただけに期待はずれな気がした。注目を得るための安易な制作スタイルの材料にしてはならないと思った。
by osamk37
| 2009-06-10 13:15
| アート